私は子供時代、My Birthdayという占い、おまじない系の雑誌を定期購読していた。昔から目に見えないものを信じるのが好きだったのかもしれない。
運命という言葉にどこか敏感で「シンデレラ症候群」(誰でも運命の相手がいる)だったような気がする。まあ、小中学生の頃だからね。
ちなみに「運命の相手は性別関係なくたくさんいて、その時の自分に必要な人と出会い心の交流を深めて行くもの」というのが、現在の私の考えである。
というのは前置きで…
私が生年月日を用いるもので初めて学んだ占いが、算命学だった。余り耳馴染みがないかもしれないが、占いの中で最古のものであり、全ての占いの原点と言われている。四柱推命に似ている感じかな。まぁ、そこは四柱推命が参考にしたんだろうけど。
ふらっと入った手相占いが算命学との鑑定をセットにしていた。
占ってもらうと、結果は自分によく当てはまっていてとても興味深く「私も勉強してみたい!」と思った。そのことを鑑定してくれた占い師さんに話すととても喜んでくれた。色々調べある学校に通うことになった。
私の同期生は50人以上いたと思う。たまたま希望した曜日が、有名な先生の担当だった。だからその人数になったようだった。対面の教室に入りきらず、別の教室でライブ映像で講義を受けている人たちまでいた。その熱中ぶりに正直驚いた。
2年間通ってようやく基礎が終了する。勉強してもしても極めることは出来ず、6年以上通っている人も多いとのことだった。現役占い師さんもたくさんいたらしい。
算命学の考えは「人間には持って生まれた宿命(運命)がある」
そう、運命論ありきの占いなのである。シンデレラ症候群だったかもしれない私のどこかに刺さってしまったのだ。
講義の内容は想像以上におもしろく、理論や歴史などまで掘り下げた学びだった。学生気分も楽しくて私は毎週楽しみにしていた。
しかし、ある時を境に私の中で違和感が芽生え始める。
実際に命式(生年月日からその人が持って生まれた宿命を算出したもの)を使って授業を始めた頃からだった。
有名人を題材にし、命式を解きながら、その人の人生と照らし合わせる。誰でも知っているような国内外の政治家、著名人、芸能人達の生まれ持った宿命と実際の人生が比較されて行く。
この人は自分の宿命に逆らったから問題を起こした。この人は宿命通りだから病気になった。
命式の内容が、私達がマスコミなどを通して知っていることとズバリ的中していて、誰もが更に興味を惹かれる内容になっていただろう。でも、私は違和感だけが大きくなっていった。
ある授業の帰り道。私の頭の中をぐるぐるする言葉があった。
「なんでもっと幸せになった例をやらないの?」
でも、その答えもすぐに見つかった。要するに、センセーショナルが必要なのだろう。
正直に言えば私も「人間には生まれ持った宿命や運命がある」と感じている。でもそれは、その人の選択ののちにあり、本人の力で変えることが可能でなければならないのだ。
人の人生と命式の答え合わせが後出しジャンケンのようであった。亡くなった方のことも多く題材になり、死人に口なし状態に感じた。運命と宿命が決まっていることを説くならば、先に言うべきだ。ノストラダムスの大予言のように。
段々、気持ちも足も遠のいた。それでも何とか1年通い初期の修了証だけ手に入れた。
私は学校に通ったことも算命学を学んだことも全く後悔してない。むしろ行って良かったと思っている。
なぜならば、自分が人として占い師として、どういう心持ちでいたいのかを改めて知ることができた。おかげさまなのである。
私は「占いは勇気や自信をくれたり、人生を豊かにするもの」だと信じている。自分は占い師として未来が明るくなるような、未来に焦点を当てた鑑定がしたい。その為に生年月日を用いて生まれ持った資質を知ることは、自分の武器になると感じている。だから算命学もうまく鑑定に取り入れたいと思っている。
「運命と宿命」
文字だけ見てもとっても神秘的だ。
これからもきっと、様々なことを感じながら生きている限り学び続けるのだろう。
この記事を書きながら、何だかワクワクしている自分がいる。